郡司 ペギオ-幸夫「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」と、川崎徹「石を置き、花を添える」と、稲葉 振一郎,松尾 匡,吉原 直毅「マルクスの使いみち」と、ポール・ラファルグ「怠ける権利」と、小田中 直樹「ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう」と、クレール・パルネ,ジル・ドゥルーズ「対話」が気になる。気になるけれども、いまうちにある本で読んでないのが大量にあるので、まずはそちらに取り掛からないと。というか、いま読んでいるやつをまず倒さないと。マルクス資本論 1」、カント「判断力批判 上」、稲葉 振一郎「「資本」論―取引する身体/取引される身体」、ジャン・ボードリヤール「物の体系」。「時間」については自分なりにとりあえずひと区切りついていたけれど、「時間の正体 デジャブ・因果論・量子論」をちらっと読んでみたら面白そうであった。これはものすごく妙なところからの時間論のような。でもしばらくは、経済や社会(学)についての本を読むことになりそう。本を読むには時間がかかる、のが、本の良いところだと思う。時間の浪費とかそういうことじゃなくて、読むというコストをかけなければならないことにまず意味がある。ほいで、たぶん、文章を書けない人は文章を読めない(読むコストをかけられない)人でもある。私がこうして特に意味もないことをいろいろ書くのは、文章によってなにかを誰かに伝えるとか、文章によってなにかを考えるとかいうよりも、たんに読んだだけの分量の文章を放出しないと、次のが読めないからかもしれない。なんとなくそんな感じはある。私は読みたいだけだから。棚橋弘季さんが「自分が見たこと・聞いたことをちゃんと言葉にできるようになるために」(http://gitanez.seesaa.net/article/106474532.html)でおっしゃっているように、言葉が弱れば、人間そのものの思考が弱るのは避けられない。ほいで、この文章に引用されていた松岡正剛さんの文章が面白くて、『ポスト・メディア論』デリック・ドゥ・ケルコフ 松岡正剛の千夜千冊(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1240.html)より

 「見聞」という言葉が示しているように、われわれはいつも見たり聞いたりしている。しかし、実はそれ以上にしょっちゅう触ったり、味わったり、嗅いだりもしている。
 ただ、そのことを言葉にすることがすっかりへたくそになっている。そして、いやあ、言葉にならないことって、いっぱいあるんだよというふうに嘯(うそぶ)くのだ。が、これは大まちがいだ。
 なぜなら、かつての聞き語りの社会がいきいきしていた時代には、見聞の想起には、必ず触知も味覚も匂いも伴ったのである。それがマルセル・プルースト(935夜)が描いてみせたことだった。ところがあまりにメディア・テクノロジーによる見聞中心主義に慣れすぎていると、かつてそのことをウォルター・オング(666夜)が指摘したことがあるのだが、「知っていることは思い出せることだけ」ということになりかねない。これでどうなるかというと、連想力や類推力がいちじるしく落ちる。

この文章は読んだ記憶があるのだけれど、この箇所には気付いていなかったというかひっかからなかったらしい。知っていることは思い出せることだけ、ならば、さらに、思い出せることは憶えやすい(整理整頓してインデックスをつけやすい)ことだけ、というふうになる。そして、いまの時代、憶えやすいことは、テクノロジーによって記録が可能なことであって、それ以外はまず憶えにくい。人間って自分たちが作り出したテクノロジーによって変化(最適化)させられてしまう生き物だから。でも最適化以前に、ある程度の変化の幅を持った物事でないと、記憶されない、ということもある。人間の記憶にはそれが作動する閾値がある、たぶん。いやいや、違うかもしれない。さっき最適化以前と書いたけれど、そんな「以前」はそもそもなくて、それぞれの時代のテクノロジーによってその都度「閾値」が決定されているのかもしれない。いまでいえば、視覚・聴覚に特化したテクノロジーによって決定されている可能性がある。ひょっとしたら。