15時ごろ家を出て電車のなかで読んだ樫村愛子ネオリベラリズム精神分析」第二章「再帰性のもつ問題」より

どんなに大多数の他者の経験が指し示されたとしても、「自身のもつ他性、他のものに変化する可能性」による選択は、固有のものである。なぜなら、人間の記憶や経験の多様性と複雑性により、一つとして同じ経験を生きた人生がないように、一人の人の生はいかに情報社会になっても固有のものだからである。 また、たとえ、ある人の選択が結果的に多数の人々の選択と一致したとしても、選択に至るプロセスが、その人の行為にとって重要である。 これに対し、現在の商品戦略は、この個人的な行為や知的行為そのものを面倒な労働として捉え、この労働を節約し商品化する。「動物化」する主体とは、この労働の節約にのってしまう主体であり、資本にとって都合のいい消費者である。

労働を節約し商品化するとはつまり、選択に至るプロセスとその結果とを意図的に混同し、プロセスではなく結果だけをパッケージするということで、しかもこれは資本が消費者のニーズに応えたという両者の共謀によるものである。人間は手っ取り早く結果だけ欲しがる。選択に至るプロセスを「再帰的」に反省することなく、結果だけをただ消費していく。梅田から地下鉄御堂筋線に乗り本町で中央線に乗り換えて大阪港へ。築港ARCへ10月6日のチラシを置きに行くがアサダ君は不在。ワークショップ企画担当で俳優/照明でもある桔梗谷さん(本名)といろいろおはなしさせてもらう。私がライブというかパフォーマンスという状況でやっていることを話したら、演出家兼俳優みたいですね、という指摘が。私自身も前からそういう風に感じていて、なにかが起きる場を用意して(そのなにかがなにかは自分でも分からない)共演者や観客と一緒にそこに放り込まれ、それぞれに演じるということで、もちろんそういう立場は空間を支配する独裁者のようなものであってはならない。12月にチェルフィッチュ「三月の5日間」が国立国際美術館で上演されることを築港ARCにあったチラシで知る。ぜひ観たい。築港ARCをおいとまし中央線に乗り本町で降りる。電車のなかで左腕、肘から下というか手の方の内側に明朝系の書体で「じゆう」という入れ墨を入れているイタリア系の外国人を見た。じゆう。ベルリンブックスまで歩くも閉まっていた。その足で複眼ギャラリーへ。チラシを渡しがてらいろいろおはなし。いまやっている「 水内義人」展はそのよく分からないどこにも向かわないゆえにどこにでも向かうような意味不明のエネルギーがとにかく謎だ。ちょうど入った時に、この前のBee CRAFT FAIRの他の映像を上げているところだったよ、とのことでせっかくなので時間軸に沿ってまとめて貼っておく。
・9.9.2007 BEE Craft Fair 1

・9.9.2007 BEE Craft Fair 2

・9.9.2007 Bee Craft Fair 小屋付近