西宮市大谷記念美術館で開催された
藤本由紀夫展「philosophical toys[哲学的玩具]」図録に収録された
藤本由紀夫のエッセイ「タイムトラベルの方法」より

電子音楽の制作を始めた頃の録音機は、オープン・リールのテープレコーダーであった。映画フィルムのようにリールに巻かれた録音テープは、ハサミと接着テープで切り貼りすることにより、時間の流れをバラバラにすることができる。走行速度を変えると、音の長さが伸縮し、同時に音の高さも変化する。また、リールを裏返して再生させると、時間の流れの方向が逆転され、とても奇妙な音になってしまう。このような操作を組み合わせて作品を制作するわけであるが、このプロセスは、音という現象を操作するというよりも、時間構造をコントロールするという意識に近い。

ここで言われている「時間構造のコントロール」で
コントロールされる「時間」そのものが、
コントロール外の「実時間」と対比させる限りにおいてしか
存在し得ないことへの突っ込みはいまは置いておいて、
ふと思ったのは、「ラップトップのライブ」というときの
「ラップトップ」を「演奏」するということは、
「オープン・リールのテープレコーダー」を「演奏」するみたいなものではないだろうか、
ということ。
「〜〜このような操作を組み合わせて作品を制作する」とあるように
オープン・リールのテープレコーダーを使って
ある時間の長さのテープに定着された作品を制作するのは
あくまでもスタジオの中での作業なのである。
その作業自体が演奏だと見なされたり、まして
その作業自体が演奏として演奏されることなんてあったのだろうか。
もちろんなんらかの例外としてはあったかもしれないが
いまの「ラップトップ」のように頻繁には行われなかったのではないだろうか。
あくまでも、オープン・リールのテープレコーダーは
スタジオで時間をかけて作品を制作するための道具で、
楽器だと思われたことはあまりなかったのではないだろうか。
オープン・リールのテープレコーダーは基本的には、楽器ではない。
これは推測でしかないのでなんともいえないが、なんとなくそういう気がする。


音楽におけるコンピュータの使い道はおおまかに言うと
音声ファイルのミクロな操作と、シーケンサーによるそのマクロな配置
が基本的なもので、磁気テープがデータになったとか
そういう意味では便利にはなったかもしれないが
オープン・リールからなにも変わっていないような気がする。
昔ならスタジオいっぱいの機材が必要だったことも
いまではひとつのラップトップでできてしまう、というだけだ。
私たちは、いままでのあらゆる音楽の方法を
ラップトップに移植しようとしているだけだから。
「ラップトップのライブがつまらない」と言われるひとつの要因は
普段は家で時間をかけて作品を制作するための道具として使っている
ラップトップを無理矢理ステージに引っ張り上げたことにある。
ステージで見せられることといったら、マウスを動かす普段通りの制作の姿しかない。
「ライブ」といってituneの再生ボタンを押すような詐欺をはたらくくらいなら
バーナード・ギュンターのように
コンピュータでの編集の時点で自分の制作は終わっている、として
CDプレイヤーを使ったパフォーマンスをやる方がどれだけ誠実か。
結果としての出音のクオリティを多少損なってでも
リアルタイムな操作の自由度を上げる、という涙ぐましい努力も
残念ながらひとつの悪あがきでしかないように思う。


もちろんそれだけでなく、一方では、プログラムを使った
音や構造のリアルタイム生成なども盛んに行われてはいるけれど
それも結局は、エフェクターとしてのDSPだったり
制作のプロセスをプログラムに置き換えただけで
汎用性という名の均質化に向かうだけだったりする。
そういった意味での音や構造のリアルタイム・プロセッシングには未来はない。
どれだけ頑張っても、コンピュータの計算速度が上がっても、
私たちがいままでの方法を移植していくだけならば、
せいぜいが、家と同じことがリアルタイムにできる
ということでしかなくて、そこで新たなことは何も起きない。


だいたい、いまコンピュータ・ミュージックというとき
どのような音楽を思い浮かべるだろう。
電子音?生音や楽器音のDSP?グラニュラーシンセシス
エレクトロニカグリッチ?テクノイズ?音響派?デジタルミニマリズム
そんなものは私たちが作り出したイメージであって、
それは本当にコンピュータでしかできないものなのだろうか。


だったら、どこにコンピュータ・ミュージック(とそのライブ)の未来があるのだろう。
音楽というより音として物理的にどこまでもひたすら追求していくか、
どこにもないかもしれない「計算」と「人間」のダイナミックな出会いを探すか、
私にはさっぱり分からないけれど
いままでの、あらゆる方法を、コンピュータに、持ち込んでは、ならない
ということは何となく思う。
はっきりいってそれは不可能だし矛盾してもいるが
とりあえず、なにかあるかもしれないと思っていないと
そのなにかがもしあった時に見つけられないだろう。