さっき風呂で読んでいた箇所。本橋哲也「ポストコロニアリズム」、「第五章 階級・女性・サバルタン―ガヤトリ・スピヴァクベンガル」の冒頭。

  現在ニューヨークのコロンビア大学で教鞭をとるガヤトリ・スピヴァクは、その難解な文章もさることながら、教室でもきびしい姿勢で有名である。あるとき大学の教室で、ひとりの学生が「先生の言われるように、自分の出自を自覚したり、自分がどんな特権的な位置から話をしたり知識を得たりしているかにいつも意識的であろうとすると、僕みたいに白人で男で中産階級アメリカ人学生は何も言う資格がないんじゃないでしょうか」と聞いてきた。そのときスピヴァクはこう答えたという。「そうやってあなたに何も言えなくさせている、それはあなたの階級とか出身とかお金とか、そういうものでしょ。こうやっていっしょに勉強しているのは、そのような特権のありかを自分で知って、それをひとつずつ自分から引きはがしていくプロセスなんだ、と考えてみたらどうかしら」

なんかこう書き写してみると、この男子学生、皮肉のつもりでこういうことを言ったのではないかと思えたりもする。しかし仮にそうだとしてもスピヴァクの返しは変わらず機能するのがおもしろい。また、「何かを言う資格」問題というのはいろんなところにあるけど、そこには必ず、相手を黙らせようとする力のようなものが働いていて、しかしながら力を持つ者が持たない者を黙らせるというだけでなく、力を持つ者に対して「持つ/持たない」という非対称な関係を逆手にとって「力を持つ者こそ(力を持つゆえに)黙れ!」という力が働くこともある。それもまた特権となるわけで、いわゆるところの特権に限らず、そのような逆特権(とでも呼べばいいのか)もまたひとつずつ自分からひきはがしていかないと、いろいろややこしいことになっていく。なにかを言う資格=立場・ポジション取りゲームになりがちというか。なにかを言うことによって起きることを自分で受け止める限り、誰がなにを言ってもいいと思うし、個人的にはだけど、なんならなにかを言うことで起きることを受け止めなくてさえもいいとも思う。受け止めないと!と思うあまり、なにも言わなくなるという弊害もある。なにかを言わなければ、それを言ったことで起きることを受け止める責任も生じないし、突っ込まれることもない。そうなると、誰が、どういうふうに、なにを、考えているのかさっぱり分からなくなる。もちろん、言うか言わないかは相手によるし、誰に、どういうふうに、なにを、言うかは、自分で決めることができるし、公になされた発言だけが意味あるものでもない、もちろん。あと、もちろん、誰かを傷つけてしまうのは可能な限り避けたいし、また、傷ついた時は気軽に傷ついたと言えるのがいいし、そうすることで反省がうまくいくようにも思う。