むかっとする時って、だいたいは「自分の思い通りにならない時」で、単純に、むかっとすることを言われたという場合でも、「むかっとすることを言われたくない」という思いに沿って物事が進まなかったからむかっとするのだと解釈すると、 「自分の思い通りにならない時」にたまたま居合わせた他人を憎んだり怒ったりしなくて済むのではないか。もちろん、他人から受ける自分への暴力については区別して、きちんと怒らないといけないが。

松村真宏さんの言う仕掛学の「仕掛け」と、行動経済学の「ナッジ」ってどう違うのか。と思ったら、松村さんご本人も共同執筆者になっている論文に、仕掛学の立場から、その違いが整理してあった。いまざっと読んだけど、プリントアウトして後でじっくり読む。

https://www.shikakeology.org/pdf/TBC2018007.pdf

 

「ナッジ」と「仕掛け」の違いとして、個人的に大きいと思うのは「遊び心」なのだが、これを先ほどの論文では「そそる」という言い方をしていて、これはこれで効果があるのは分かりつつ、気になるのは、「遊び心」のセンスが難しい(アプローチする人たちの文脈に依存したり、遊び心としてつまらない場合もあり得る。これはこれで当然のことで特に悪いことではないけど)というのと、「仕掛け」に出会った人に対して「遊び心」を強制するというか、こちらのコンディション次第では、その「遊び心」がうざい場合もあることか。なので、いろんな人がいる公共的な場面というよりは、ある特定の属性・文脈が強い場面で力を発揮するような気がする。例えば、ファンが集うコンサート会場で、何かの行動について選んでもらいたい時とか。

 

私の住む地区には、住民が集まって行われる草刈りや墓掃除(「郷令」と呼ばれる)がある。これに参加しなかった場合には、「出不足金」として500円徴収されるのだが、その出不足金を2000円に増額しようという提案があり、区の総会で同意が得られず取り下げになったらしい。行動経済学かなんかで、郷令になるべく参加したくなるような設計ができないか、気になるところ。「地区の全員参加だから行かないと」という意識がだんだんうすれてきている現状で、そもそも、どのような動機付けが適切なのか。住民の自治とか交流に意味があるのは分かるが、自治への動機があまりなくなってきているのじゃないか。